今を楽しむ 恋はデジャ・ヴ
こんばんは。
素晴らしい映画を観てしまった。
昔からどうしても観たくて、アマゾンプライムで199円で観てしまった。
『恋はデジャ・ヴ』
すごくいい解説があったので、覚書まで。
ニーチェが書いたですね『喜ばしき知識』っていう本があって、その中でですね、「永遠回帰」もしくは「永劫回帰」っていう言葉をニーチェが出してきてるんですね。
それは人生がもう一度完全に同じように繰り返されるとしたら、それはどうだろう?と。同じ、全く同じ何の変わり映えのない日が何度も繰り返されたとしたらどうだろう?と。それは拷問かもしれないと。でもそれを喜びをもって生きることができるならば、それは本当に立派な人間のはずだ、ってなことをいうんですねぇ。
で、この「永遠回帰」っていうのは一体なんでこんなことをニーチェが言ったのかっていうことは非常に謎に包まれててですね、読んでもよくわかりにくいんですね。どういう意味なんだろう、と。なぜおんなじことを、おんなじ日を、毎日を何度も繰り返さなきゃいけないのかと。で、どうしてそこに喜びを見出さなきゃいけないのかって、わかりにくいんですが、これは実は、彼がずっと反発してたキリスト教的な概念へのですね、アンチテーゼとして出してるんですね。で、それがわからないと何をいってるかわからないわけですけども。
実はキリスト教ってのは、ユダヤ教、イスラム教全部同じなんですけども、そういった一神教、全部同じ神様なんですけれどもね。要するに昔立派な社会があった、立派な世界があった、要するに神の国があった、この世界は神が創ったと、でもだんだんダメになってしまったと、堕落して、人間がね。でもいつか未来にはまた神の国が実現されるんだという考え方なんですね、基本的に。いつか、神の、天国が実現されるんだと、ないしは死んで天国にいけるんだ、っていうような、「未来にいいことがある」っていう考え方なんですよ。で、その現在っていうのは未来のための修練の場だ、という考え方なんですね、これは。キリスト教的考え方なんですね、まぁユダヤ教的考え方、イスラム教的考え方共通してるわけですけども。
ところが、それっていうのはマルクス主義にも影響を与えてて、マルクスとか、マルクスの原点であったヘーゲルっていう哲学者もそうだし、まぁ実存主義も全てそうなんですけども。世の中っていうのはどんどん良くなっていくものなんだと、人間っていうのはどんどん成長していくもので、社会ってのはどんどん先に進んでいくんだ、未来に向かってどんどん進化していくもんなんだ、っていう考え方なんですね。これは要するに神を否定したマルクスもその考え方ではキリスト教的な考え方、ユダヤ教的な考え方に、まぁ、とらわれていたわけですけども。
ニーチェはそれを否定するんですよ。
未来にいいことがある、と。そのために現在があるっていう考え方は、それはダメだ、と。それはあまりにも現在をないがしろにしてて。まぁ、アーミッシュなんかがそうですけども、禁欲、禁欲禁欲禁欲で生きるんですねぇ、欲望を抑えつけると。で、そうすると将来天国にいける、神の国にいける、将来、要するにキリスト教原理主義なんかも、将来最後の審判が下ったとき、我々だけは神の国に入れると、神を信じないで悪いことしてた人たちはみんな地獄にいくんだっていう考え方なんですね。
つまりこの考え方は現在っていうものをないがしろにした考え方なんですね。現在やりたいことをやらないで我慢することによって、死んだとき、もしくは未来、天国にいけるという考え方で、これはダメだろうとニーチェは言うわけですねぇ。そうじゃなくて、現在、一生懸命生きるべきだなんだと、現在を楽しむべきなんだと。なぜならば現在しかないからだ、と。ホントは未来なんていうものはないんだよと、そういう嘘をついてだますなよ、ということですねぇ。
現在認識できるのは、我々にとって認識できるのはやっぱり現在しかないんだと。現在を力いっぱい楽しんで、力いっぱい生きようじゃないかということを言いたかったんですね。つまりキリスト教に対する反発なんですけども。
それで永遠にこの一日が繰り返されるとしてもそれを楽しむ、と。それを思いっきり生きるんだよ、という考え方をニーチェが出してきて、それが「永遠回帰」なんです。で、 "Groundhog Day" っていうのはそれを言ってるんですねぇ。これはすごい映画なんですね。だからアメリカではそれが認識されているわけなんですが。
あと、「シジフォスの神話」っていうカミュが書いてる哲学の短いエッセイがあるんですけども。これもまぁ似たような話で、そのシジフォスっていうですね、男がですね、まぁギリシャ神話なんですけれども、永遠の刑罰を受けるんですね。それは巨大な石の塊をですね、どんどん坂の上に押していくという仕事をやれといわれるんですね、一生、永遠に。で、どんどん石を山のてっぺんに押してくと山のてっぺんで石はまた下に転がっていってまた下まで取りに行って、押し上げなきゃならないと、それが永遠に続くと。なんにも結果は出ない、と。もうただ同じことが延々と続くだけだと。で、これは拷問なんだと、いうことなんですね。
で、これ全くおんなじですね、 "Groundhog Day" の拷問とおんなじなんですけども、このときカミュが同じことを言っててですね。でも、その無駄な、石を持ち上げるっていう何の見返りもない行為に喜びを見出すのが人間なんだ、と言ってるんですねぇ。そこに積極的に喜びを見出していくのが人間っていうものなんだよ、未来なんかなくても、将来天国に行けるっていう見返りがなくても、その日々の生きるってことだけを実は楽しむことができるはずなんじゃないか、っていうふうにいってるんですねぇ。そしたらもういつ死んでもいいじゃないか、ってことですね、今精一杯生きてるから、と。
(中略)
今、その場で全力を尽くせ、ってことなんですね。そこで会った人は要するにうっとうしいなと思うかもしれないし、まぁ、あとで会うかもしれないし、あとで一生会わないかもしれない、だからもう関係ないと思うんじゃなくて、会った人会った人、一人ひとりを大事に思って一期一会で愛せ、っていうことなんですね。で、最後ビル・マーレイはそれができる人になるんですよ。と、いう映画なんですね。
(「町山智浩のアメリカ特電」第73回、34分頃より引用)
おれの目指す生き方のヒントをもらえた。
この映画作った人、俳優さん、町山さん、ニーチェ、ありがとう!
おれは岩を動かして喜びを見出す人間になりたい。
ぼんを。
テストがんばろう
味を味わう
今日は大学の近くのイタ飯に、ようやく行くことができた。
店に入るとピッツァのいい匂いが立ち込め、ウッドカウンターで至福の時を過ごすことができた。
また行こう。
さて、
飯を食うことは、私にとって二つの意味合いがある。
一.食欲を満たす(生理的欲求)
一.味を味わう
食欲を満たすことは、人間生活を送る上で不可欠なことである。
私は最近、タンパク質や野菜に含まれる栄養素などをしっかりとろうと考えている。というのも、私はテニス部で活動しており、酷使した筋肉を回復するためや、医学の勉強で疲労した体細胞に栄養を与えてやることが大切だ、と考えるからだ。
これは、人間生活を確立するという意味合いで、第一の項に該すると考える。
では、味を味わうとは何か?
それは、味を味わうということである。
美味いパスタを食べるとき、視覚で色彩、バランスを楽しむ。その後フォークでくるくると丸めて口の中に放り込む。絶妙なアルデンテの触感を楽しむと同時に、はちきれてくる味の爆発を舌細胞が受け止める。
これが味を味わうということである。
特記しておきたいのが、空腹は最高のスパイスではない、ということである。
むしろ私は、上手いものを食べるときは、空腹感のない状態で臨みたいと考えている。なぜなら、空腹感という生理的欲求は、味を味わう上で邪魔他ならないと考えるからだ。
また、味を味わうためには一人で食べるのがベストだ、ということも付け加えよう。
誰かと行くと、感想を無理に言葉にしようとして、画一的な印象に下落するリスクや、唾棄すべき同調圧力、無駄な気遣いなど、様々なリスクファクターが生じるからだ。
良き食を。
ボーン
突き破れ
じゃあなといったそばからもう一回書くのもあれですが・・・
今日部室におったら、友達が言った。
「なんか楽しい事ないかなー」
「ん??(笑)」
その友達は彼女がいないから人生そんなに楽しくないらしい。
「おれは彼女いないけど毎日楽しいぜ」
おれは言ってやった。
「いや、それは知らないだけだ。彼女ができたらもっと楽しい毎日が待っているのだ。」
ほーん。
私は賛成の意見と否定の意見を持ち合わせた。
賛成から。
今日テニス終わりに先輩と昼めしを食いに行った。
そこで私は衝撃的なものを目にした。
その先輩、なんとトン汁に七味をかけていたのだ。
曰く、めちゃくちゃ合うとのことで、子供のときからかけているらしい。
おれは思った。
トン汁はもう完成されているんだ。それに七味をかけるなんて、モネの絵画に赤ペンキをぶっかけるように汚らわしい行為だ。なんてナンセンスな人なんだ、この人は。と。
「やばいっすよそれ。」
「やってみろよ。」
おれはしぶしぶやってみた。
美味かったのである。
味噌のまろやかさと、七味のスパイスが間違いなく共存して、いや、共鳴していた。
なんてこった。
衝撃だった。
この例からわかるように、彼女がいるというのは、想像をもしなかった幸福が訪れるのかもしれない。
さて、反対意見を。
おれは実家通いである。片道約1時間かけて大学まで通う悲しき自宅生である。
何度も交渉したが、母親はかたくなに拒否し、結局夢の下宿生活は訪れていない。
おれは何度も激昂した。
そもそも昔から、親はこう言っていた。
「お前の面倒を見てやるのは高校までだ。大学からは家を出ていけ。」
と。
私は少年時代から、いつか来る、独り立ちの日を想像し、孤独とそして興奮を感じていた。
それが、である。
大学が決まると手のひらを返したように、家から通えるからそれで行け、だったのだ。
おれの夢見た下宿生活は、消えた。
何度も考えた。
下宿さえすれば、もっと楽しい毎日が待っているのに。
自分の好きな料理作って、好きなだけ飲み会して、早起きしてテニスして・・・
何度も思った。
一度マジで切れたことがあった。
議論は無駄であり、おれはロードバイクにまたがり、あてもなくこぎ続けた。
その時気づいた。
別に下宿しなくてもいいんじゃねーの?
おれは昔からずっと下宿を夢見ていたがゆえに、絶対的な幸福を信じて疑わなかったが、別に下宿なんてしなくても、幸せにはなれるんじゃねーの?
そう気づくと、一気に楽になったのである。
今は実家生活に満足しているし、親孝行だと思って、家族との時間も大切にしようと考えている。
(それでもたまに、ほんのたまに、下宿していた人生を考え、寂しくなる。)
さて、どうなんだろ?
皆さんどうおもいます?
孤高のソロ充 ボーン
医学生ボーン、宝くじを買う
学校からの帰り道、AviciiのThe nightsを聴きながら、ノリノリで京阪から地下鉄に歩いていた。
すると何やら黄色いハッピを着たおばちゃんが看板を掲げて叫んでいた。
「ジャンボ宝くじ 本日最終日 1枚300円から」
宝くじなんて買う連中はバカである。
数学の授業で「期待値」について学んだ中学生ボーンは、宝くじの期待値は半分以下であり、5億なんていう夢を買う輩どもは、宝くじ会社に搾取されるバカである、と考えた。
そもそもなんだあの狭苦しい売り場は?
あの売り場と、そこに並ぶ人たちを見て、心を痛めていたのであった・・・。
そして現在、医学生ボーン。
宝くじを買うなんてバカだ。期待値も知らないあほうだ。
もちろんその通り。
しかし何かが彼を引き留めた。
ロマン。
それを彼は感じてしまったのだ。
耳ではAviciiが高らかに叫んだ。
「Live a life you remember!!」
OK
I will!!!!
買いました!!!(笑)
なんか二種類あるらしく、一発がでかいものと、確率がたかいものらしい。
おれは1枚ずつ買った。
結果は30日にわかるらしい。
30日が楽しみだぜ!!!!
じゃあな。ボーン
意図、ものを見るヒント
仏教校であったわたしの中・高では、一か月に一回、仏様をおまつりする?謎の儀式が執り行われた。中1から中3、高1から高3までがそれぞれ体育館に集められ、珍妙な音楽の中で儀式が行われ、校長の途方もなく長いありがたきお話しがあるのだ。かくして全校生徒は現実と夢想、現世と浮世の混沌を、毎月行き来するのであった。
さて、その儀式の後、吹奏楽部が演奏をするという習慣があった。音楽的素養のない私は、演奏している生徒を眺めて時間をつぶしていたのだった(とりわけ私の興味を引いたのは、打楽器の演奏者だった。彼、彼女がリスのように目まぐるしく楽器を取り換えひっかえしながら演奏する様は、私にとって刺激的だった)。
しかし、高校生のとき、珍しく私が音楽を集中して聞いているときがあった。そのとき私は、衝撃的なことを発見したのである。
それは
吹奏楽には一つ一つの楽器の音色から構成されており、その全てが人間(演奏者)一人ひとりによって作られており、それが統合されて一つの作品となっていることは、何と美しいのであろう
ということであった。
このことに気が付いた私は、大層衝撃をうけた。体育館を見回すと、壁や床や天井の無数のライト、その他もろもろなど、様々な人工物があり、それらすべてに人間の「意図」があるのだ、ということに。
「意図」に着目するのは、非常に面白い着眼点だと私は考える。
例えば、芸術作品。私は長らく絵画の鑑賞方法がわからなかったが、絵画があるということは、作者がいるということであり、それ即ちそこに無数の「意図」があるということだ。その一つ一つを見破ることは、至上の楽しみ他ならない。
また、知らない町を歩く時にも、面白い。初めて見る建物を味わうこともできるし、町全体の構造を考えることもできる。レストランにいって、テーブルのものの配置、給仕の服装、たたずまい。料理に何が使われているのか、どの食材の組み合わせがこんなにも素晴らしい味を生み出すのか(こうした思考に浸れるのは、一人旅の魅力でもあると考えるが、これは別の話)。
そして、「意図」を見抜くことは、つまり「Essential」を見抜くことにもつながる。大事な所、抜けてはいけない本質、Cargo Cult Scienceにならないための真理を見出すことに結びつくと私は思う。
鍛えていきます。
ボーン
調子のいい日
こんにちは。ボーンです。
なんかやたら調子のいい日ってありますよね。
昨日、カレーをテイクアウトして飲食スペースでチェスの勉強しながら食べてたら、周りでなんかがやがや始まった。
どうやら留学生との交流会が始まったらしい。
そんなのくそくらえだ!!とクイーンズギャンビットを読んでた。
そしたらひょんなことから、ちゃびーなドイツ女留学生と知り合って、あれよあれよと飲み会に行くことになった。
今日はなんか久しぶりの友達とよく会った。
なんか調子いいなーという日々。
ボーン
他人の映画評なんて見るな!!
テスト勉強中のボーンです。
病気がみえるって本はすごくわかりやすいですね。
テスト前に限って、他の事をしたくなりませんか?
僕の場合、机の前に座って教科書ペラペラする
→10秒ぐらいして机の上を整理し始める
→おいてあった伊丹十三の本を読み始める
→我に返り、本棚に戻す
→一息つく
→つめをきる
→つめの匂いをかぐ
→音楽でもかけようとスマホを開く
→メール、LINE処理
→ついでに後輩を牡蠣食べ放題に誘うLINEをする
→我に返って、ノートPCで小テストを印刷する
→ネットを開いたついでにAmazon Primeの映画で今度どの映画を観ようか探す
→前から観てみたかった『About Time』を発見する
→観てしまうwwwwwww
→パスタ作って食べる
→映画再開wwwwww
→終わってぐぐって他の人の感想を見る
→なんかこけおろしてる人発見
そういう意見って、確かに一応納得できてしまうんですよね。でも、映画作ってる人だって、そんなこと気が付くはずで、それを承知で作ってるはず。批判的な観点って大事だけど、人が作ったものを意図に沿って素直に面白かった!っておれは言いたい。
と思ったのであった。
テスト勉強します。