意図、ものを見るヒント

仏教校であったわたしの中・高では、一か月に一回、仏様をおまつりする?謎の儀式が執り行われた。中1から中3、高1から高3までがそれぞれ体育館に集められ、珍妙な音楽の中で儀式が行われ、校長の途方もなく長いありがたきお話しがあるのだ。かくして全校生徒は現実と夢想、現世と浮世の混沌を、毎月行き来するのであった。

さて、その儀式の後、吹奏楽部が演奏をするという習慣があった。音楽的素養のない私は、演奏している生徒を眺めて時間をつぶしていたのだった(とりわけ私の興味を引いたのは、打楽器の演奏者だった。彼、彼女がリスのように目まぐるしく楽器を取り換えひっかえしながら演奏する様は、私にとって刺激的だった)。

しかし、高校生のとき、珍しく私が音楽を集中して聞いているときがあった。そのとき私は、衝撃的なことを発見したのである。

それは

吹奏楽には一つ一つの楽器の音色から構成されており、その全てが人間(演奏者)一人ひとりによって作られており、それが統合されて一つの作品となっていることは、何と美しいのであろう

ということであった。

このことに気が付いた私は、大層衝撃をうけた。体育館を見回すと、壁や床や天井の無数のライト、その他もろもろなど、様々な人工物があり、それらすべてに人間の「意図」があるのだ、ということに。

 

「意図」に着目するのは、非常に面白い着眼点だと私は考える。

例えば、芸術作品。私は長らく絵画の鑑賞方法がわからなかったが、絵画があるということは、作者がいるということであり、それ即ちそこに無数の「意図」があるということだ。その一つ一つを見破ることは、至上の楽しみ他ならない。

また、知らない町を歩く時にも、面白い。初めて見る建物を味わうこともできるし、町全体の構造を考えることもできる。レストランにいって、テーブルのものの配置、給仕の服装、たたずまい。料理に何が使われているのか、どの食材の組み合わせがこんなにも素晴らしい味を生み出すのか(こうした思考に浸れるのは、一人旅の魅力でもあると考えるが、これは別の話)。

そして、「意図」を見抜くことは、つまり「Essential」を見抜くことにもつながる。大事な所、抜けてはいけない本質、Cargo Cult Scienceにならないための真理を見出すことに結びつくと私は思う。

鍛えていきます。

ボーン